~~~~~~~~次回出演~~~~~~~~

9月13日㈮「神楽坂のソウルフルナイト」<オ・シャンゼリゼ>(神楽坂)
歌:ほさか夏子
演奏<La Maladie D'Amour>pf.Frédéric VIENNOT gt.白𡈽庸介 bs.立原智之


詳しくはこちらからどうぞ⇒ ほさか夏子のスケジュール

封印を解く

三年前の11月、「夏子通信6’」を配布した。
そこに以下のような文を載せた。


夢見る夢おばさん


 この号は「6ダッシュ」である。「夏子通信6」ではここに右のタイトルで私の世界観の一端を書いた。テレビで流れるニュースや議論を聞くたびに、錆び付いた共同幻想がもたらす悲劇を、対処療法にしかならぬその錆び付いた幻想の下で交される意見を聞くたびに、胸は痛み、虚しさを覚え、悶々としていたからである。 
 毎号書き終えると、まず母と夫に読んでもらっている。今回母は「まぁ、考える機会ができていいんじゃないの」という意見だった。夫は、「僕はこんなもの読まされたら二度と読まない」「誰でもうすうす気が付いていることを書いて何になる」「人間は変わることはできない」「人間は新しい価値観など作れない」もっともっと悲しい言葉も。その文面は、彼がおのれを支えるべくひたすらかじりついているものに抵触したのだが、彼の言葉も私にとって同様だった。私は、ベッドに潜り込んだ。
 その文章を封印し新しく「6ダッシュ号」を作ったのは、自分の意見を翻したからではない。それだけのことを書くには、タブーにまで触れるのなら、このような通信文の場ではなく別に設けるべきだと思ったからだ。
 歴史も知らず世界情勢にも疎く情緒不安定で人間的に欠陥のある田舎の写譜おばさんでも、ありがたいことに確かに何を言ったっていい。けれどその文章では、綻び取り繕われ教育され受け継がれて錆び付き始めた幻想の、分析、批判の一端しか書けず、ならばと提示した新しい幻想となり得るものは、それはお伽話の類であった。そして端から「夢見る夢子であるから」と逃げていた。やはりまだ書いてはいけなかったのだ。
 けれど私は逃げない。いつか必ず、タブーに挑戦する。
・・・と、がんばってここまで書いてはみたものの、虚脱感に先へ進めず、パソコンのゲームに逃げる。涙が滲む、消えては滲む。夢見る夢子でなければ、私は生きてはいけないのだ。きっと在って欲しいと夢見ることが愚かなことなら、この先何をよすがに生きたらいいというのだ。いかん、これじゃ日記だ。先へ、前へ進まなければ・・・
(付記/後の夫の言葉によると、その文章の尊大さ傲慢さ威圧的な物言いに、ついかっとなってしまったとのこと。)


そして今、「夏子通信6」の封印を解く。


夢見る夢おばさん


 いい歳をしてと言われようが何と言われようが、私は夢見る夢子である。まずそれを言っておきたい。
 今月、ふたつの結婚式に出席した。「そうだな、十一月はこの話題でいくか。」と先月から気楽に考えていた。そしてもちろん、幸せな二人を見ることができて暖かい気持ちになれたし、儀式も宴も社会の営みに必要なものだからそれはそれでいいし、またそのどちらも心のこもったすてきなものであった。でもそれをきっかけに、様々な思いが頭を駆け巡り始めてしまった。あぁ、何をどう書いたらいいのだろう。
そうだ、ことわりをもうひとつ書いておかなければ。私は義父母の恩を忘れない。どんなにいたらぬ嫁であるか、にもかかわらずどんなに良くしてもらっているか、こんなに恵まれた境遇の嫁はまずそういないであろう。そんなダメな嫁としての私から書き出そうと思ったが、これは彼らの名誉にも関わってきてしまう恐れがあるのでやめることにした。義父母にはほんとうに感謝しているし、いつの日かこのご恩に報いたいと思っている。
 ここまで生きてきて、人間との絆はその関わり合いの長さ深さ、密度だと思うようになった。そして、血の繋がりという意識はもうやめて欲しいと思うようになってきた。その幻想が民族意識を生み、争いをもたらす。私たちは様々な共同幻想を抱き、というより作り上げ、ここまで生き延び文化を作ってきた。家族、民族、国家、宗教等、その幻想の中でおのれの存在意義を確かめ、人間どうしの絆を呪縛で固めてきた。かつて確かにそれらは必要だった。天災におびえ飢饉に苦しみ、疫病になすすべもなく、精魂込めて育てた作物を踏みにじられて行く時、それらの幻想はどんなに私たちを救ってくれたことだろう。救うだけではなく、人間として大切なものを育ててくれもした。しかし今、それらの幻想を考えなおす時期に、いやそれ以上に新しい幻想を作らねばならない必要に迫られていると思うのだ。
 最近のハリウッド映画の、ジャンルに関係なくこれでもかとしつこく挿入される家族愛なるものに、いい加減うんざりしているのは私だけではあるまい。ここまでやられるともう、施政者のための洗脳としか思えなくなる。社会の中の最小単位としての家庭のあり様を今一度再認識させ、血または神の意識に基づく強固な繋がりの下に、他の人間の意識的な排除またはそれとの結束を促し、ひいては国家意識を高揚せしめ、わが家族を救うために悪者はやっつけるのだ正義は勝つのだと植えつけるための。ちょっと考えすぎですかね。
親殺し子殺しの絶えぬ親子の真実の側面、無差別テロまた国家による殺人の絶えぬ正義なるもの、自由な精神を神に売りこれだけ悪業非業を繰り返しても、今だに神聖視され話題にすることはタブーとされる宗教の世界。科学技術の爆発的進歩に精神世界は取り残され、先達の苦い経験・歴史にほころびかけた幻想も、失うことへの恐怖から取り繕われ教育され受け継がれ、そして硬化したその幻想はますます自分達の首を締めて行く。
 例えば親子。とつきとおか腹の中で育て産みの苦しみを味わっても、病院で取り替えられそのまま我が子と疑わずに育ててしまっていることだってあるだろう。ましてや父親にはなおさら我が子であるという確信は持てないはずだ。DNA鑑定でも受ければ別だが。「どんなことがあろうとも私はおまえの存在を認め受け入れる」という美しい意志が持てなければ、親権を放棄するべきだし、これからは共同体で育てて「私のママは三人、パパは五人よ」という時代がやってくるかもしれない。そもそも子供は生殖機能を持ったら独立し親と関係を絶つものなのに、人間はそこに様々な義務やら責任、お伽話までをも挿入してしまったから、肉親だからという理由でそれに縛られ、どれだけ多くの親子が苦しんでいることだろう。一夫一婦制、性の問題にしても、幻想の崩壊は始まっている。民族だって血の繋がりではなく、宗教の繋がりでもなく、それぞれの美しい言葉と文化を共有する人々の集まりなのだ。もうほころびかけた幻想にしがみついていては、どうにも解決できない問題が山積している。日本が戦争に負けた時のように、ベルリンの壁が崩壊した時のように、もっと大規模に地球的レベルで人間は一時的な精神の崩壊を経験しなければならないだろう。そして外敵に拠ることなく(これから先の外敵って異星人ということになってしまうのか)自らの力で新たな価値観を作り出さなければならないのだ。その時、力となるであろうものが、自由な精神、そしてそれによる人と人との絆なのだ。
何を今さら当たり前なことを、という人には退屈な話であるだろうし、疑うことができなくなってしまった人には非難を浴びせられるだろう。こういう話はちゃんと書こうとしたら到底この枚数では納まらないし、それができないのなら書くべきではないのかも知れない。ただお断りしておくが「おまえごときに」「子を持たぬ者に何が分かるか」「自分の頭のハエを追え」という類のメッセージは、今回一切無視させて頂く。人間の暗の部分に傷つき嘆き憂い、どうしたら少しでも哀しみを避けることができるのかと真摯に考えている者の一人として、相手の非難やら諦めの言葉はもう聞き飽きたから。
 んでさ、ここからが夢子さんの真骨頂なんだけど、私としてはこんな幻想があったらいいな、と思い付いた事があるのよね。でもそれは、いつか科学が証明してくれたらいいのだけど、まだお伽噺にすぎないの。だからね、私、お伽噺を書いてみることにしました。スペースファンタジーって感じかな。ええい、もういいや、笑ってよ、「想念は質量を持つ」んだから、あはははははははは。それは何のために存在するのかも考えたわ。それ以上のことはまだ内緒だけど。書けるのか、なんて考えないわ、書きたいの、だからどうしても書くの。
 人間なんてこんなものさと言うのはたやすいし、滅亡したって構わないさ、そりゃ。でも夢子は人間の美しい部分を再確認したいのだ。なぜ、美しいと感じるのか、なぜ心が澄み暖かい気持ちになれるのか、欲望だの生理のせいばかりではないと信じたいのだ。
 夢子のお伽話、どうか読んでやって下さいましね。


確かに今より3年若い私の想念、暴走もしている。
しかし、生きるために希望が欲しかった。
信じられるものが欲しかった。


子供を残さなくても、文字を書かなくても絵を描かなくても、
金を残さなくても名を残さなくても、形になるものを何ひとつ残さなくても、
いや人々の記憶にさえ残らずとも、
生きた証は残ると信じたかった。


たとえ病院で寝たきりの人生であったとしても、
「ありがとう」を言え、ほんの少し微笑むことができたら、
介護人が家に帰りいつものように散らかった子供部屋を見たとき、
その子供はヒステリックに怒鳴られなくて済むかも知れない。
それは、正も負も含めて連鎖反応を次々と起こすのだと信じたい。
人類の存在理由などわからない。
けれどそのために個は、役立っているのだと思いたい。
人の為に役立っているのだと、何かを残しているのだと、
そしてそれは連綿と繋がっているのだと信じたい。
その正の波動を人々から貰い、また人々に受け渡すこと、
それが生まれてきた理由、今生きている理由なのだと。


親殺しを子殺しをする人々に、気づいて欲しかった。
子育ては誰でもやっている普通のことなんかじゃない。
本能でしているんじゃない。
自己犠牲の上に成り立った素晴らしい行為なのだと、
お乳を与えオムツを替えてあげているあなたは、今ほんとうに素晴らしいのだと。
親を一人間と見始めた子供にも、それを伝えたかった。
そうして培われた素晴らしい関係なのだと。
そう言うことで、おのれ自身を救いたかった。


人々を救ってきたはずの宗教。
歴史を重ねた宗教は、生きていくための知恵さえも詰まっていたはずだ。
しかし、もうその知恵では補えないほど、社会も精神も複雑化している。
それを盲目的に信じろと言う人々に、そして信じようとする人々に、
別の世界を提示したかった。
信じるものがなければ生きていかれない、おのれの為に・・・。