さて、夢の話の続きである。
そういえば大切なナッパ教を忘れておった。
ワシは「ナッパ教」の教祖じゃというのに情けない話じゃ。
こんなワシの耳にも世界の悲しい話は飛び込んでくるし、
そのたびに心は痛んでおる。
その中でも特に暗く重い塊となるのが
「宗教」が底に流れる諍い争い戦い。
どんな宗教でも根底に流れる教えは
「自分がやられて嫌なことを他人にしない」
ということだとある宗教学者がいっておったが、
蓋をされた耳に届く術はない。
「大いなるもの」に畏怖畏敬の念を持ち
感謝の心で日々を過ごそうとする、
なんといったらいいか、信仰心のうちはいいのだが、
宗教となったそれに抱え込まれると人は変わってしまう。
自分で「考える」ことをやめてしまうのだ。
言われたことを、与えられたことを信じて生きていくのは実に容易いもののう。
いつの間にか殺人さえ善きことと思い込まされてしまう、人の心。
知らぬ間に利用されてしまう、人の心。
そして盲目になってしまう、人の心。
そんなに信じるものが欲しいか。
そんなに拠り所が欲しいか。
そんなに仲間が欲しいか。
おおう、なら創っちゃろうよ、と誕生したのが、
「PPAISM(ぱ教・パイズム)」なのである。
信じることを続けながら精神が自由であるにはどうしたらいいか、
仲間と夢を語り合いながら大いなるものを感じ続けるためにはどうしたらいいか、
この問題を解決した素晴らしい宗教なのである。
ちなみにこの宗教の性格上、誕生即分派が派生し、
ワシは「NAPPAISM(なっぱ教)」の創始者でもあるわけだ。
以前「夏子通信」にも書いたのだが、
長くなるので、命名の由来等は次回に譲る。
でさ、笑ってはいかんよ。
「意識は質量を持つ」
これを信じなさい。
「意識すること思考することは、物質化する」のじゃ。
そうして個々の意識は、大いなるものと繋がるのじゃ。
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詳しく知りたくなってきた?
しかし教祖といえどもお布施は届かぬし(爆)、山と積まれた仕事があるでよ。
んではまた明日の。